ZEN麺 Hot News ’98秋冬合併号
(1999年4月発行)
| 第2章『会員市町村の地域振興の紹介』 |
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| 1.石川県門前町「能登・門前まんだら村(大生白然休暇村)」 | ||||||||||
| 門前町の槻要 | ||||||||||
| 門前町は、日本海に突出する能登半島の北西部に位置し、変化に富んだ美しい海岸線は、能登半島国定公園に指定されている。人口は、2月1日現在、9,236人。昭和31年の19,030人をピークに減少を続けている。人口の減少の要因は、基幹産業である農林水産業は小規模であり、商工業も小規模事業所が多いため若者たちの町外への転出であり、中学・高校を卒業と同時に町を離れ大学や専門学校を出た後も地元以外で就職・結婚する場合が多いためである。それに伴い過疎化と高齢化が進み石川県で最も高い高齢者比率(約38.2%)となっている。こうした中で、無いものねだりの都会化をめざすのではなく、本町は恵まれた自然と歴史・風土を生かした産業の新たな展開を図り、地域文化を創造し、精碑文化を基調とした住みよい町づくりをめざした取り組みを行っている。 | ||||||||||
門前町の歴史的背景 |
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| 門前町は、その名の通り、曹洞宗大本山絶持寺の”門前町”である。福井の永平寺と並ぶ絶持寺は、1321年(鎌倉時代元亨元年)ここ門前町(当時櫛比荘)に創建されて以来、禅修業の道場として全図1万6千あまりの末寺の頂点として君臨してきた。現在、参拝者数は年間約30万人である。また、本町は江戸時代から明治初期にかけて日本海を舞台に活躍したb北前船ガの基地でもあった。当時十数軒あった廻船問屋は、北海道のニシンや昆布、東北の米、九州の陶器、大阪(堺)の砂糖や綿類などの流通に大きな役割を果たしてきた。 このように海上交通が主であった頃は、本町は日本全図から修行僧の往来や商品の流通などで賑わい、今以上に「ヒト」「モノ」の交流が盛んに行われ、文化・情報め発信(受信)基地として栄えていた。 ところが、明治初期に入り、蒸気船の進出や陸上交通の発達で次第に北前船も衰退し、経済・文化活動の中心は太平洋側へと変わっていった。そして、かつて表玄関であった日本海側は、道路・鉄道交通網などインフラ整備の遅れから太平洋側と大きな格差が生じてしまったのである。 |
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事業の概要・経緯 |
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| 平成2年春、株式会社現代人間科学研究所所長飛岡健氏(東京・大阪・名古屋など全国6都市で企業経営者などを対象とした勉強会「未来予測研究会(WSF)」を主宰)の発案により、町おこし事業としての「まんだら村」構想がスタートした。 飛岡氏によれば、21世紀は物質的な豊かさより精禅的(心の)豊かさを求める芸術・宗教・哲学の時代といわれている。 こうした中で、「まんだら村」は日本海を一望できる大地に文化人、芸能人や企業経営者の方々が集い、個々の充電・リフレッシュはもちろん、文化活動などを通じて地元住民との交流・ふれあいを図る空間を作ろうという構想である。 従って、ここは単に老後を静かに暮らす分譲別荘地やテーマパークのような観光地ではない。入村者相互には異業種交流の場であり、地元住民にとっては文化交流・情報受発信の場といえる。 「いろんな分野でご活躍されている入村者の方々には、各部門で門前の町おこしの応援団となっていただきたい。地元住民との交流を通じ、よい意味で町民が刺激を受け”やる気”を持ってくれれば、きっと町おこしの大きな推進力となる」と宮丸富士雄町長は大きな期待を込めて話している。まさに、さまざまな分野の人々が集い、それぞれの分野で活動していただく『人間まんだら』である。 以上にような考え方から、町では約8万坪の用地買収を行うとともに現地説明会を実施し入村者を募集したところ、平成2年10月から約1カ月で予定の40区画全てを完売。同時に「大自然休暇村整備事業」として道路・上水道などのインフラ整備を実施している。 この事業が発表されて以来、マスコミなどに大きく取り上げられ、全図から注目され視察が相次ぎ、対応に追われる状況が続いている。また、入村希望者の中には、す今にでも建物の建設に取りかかりたいと希望する方もおられるが、当初のコンセプトに沿って着実に事業を進めていく方針である。平成3年5月、入村第一号として前出の飛岡健氏の館(大生道場)が完成し、その完成記念パーティーが地元住民を交え盛況時に開催された。 平成の大不況びバブル経済の崩壊”は、建設を完全に遅らせることとなったものの、平成5年3月までに10棟が完成し、「灘の酒造会社の館」では地元高校生を対象とした商業セミナーの開催や、「京都の陶芸家の工房」では地元の愛好家との交流など地域に溶け込んだ活動が始まっている。 平成6年11月、落語家桂文珍氏が野外劇場を備えた別荘「芸術工房“テラ”」を完成させた。”テラ”は約3,300mの敷地内に、鉄筋コンクリート3階建の居住部分のほか、約千人が収容できる野外劇場と控室を備えている。さてそこで何ができるのか。「まず催したいのは”薪落語会”、薪の明かりで幻想的なムードを演出したい。そこでは若手がどんどん自分の力を試す。新しい創作落語の発表の場にもしたい。他にもファッションショーや音楽会、喜劇公演、青空の下でのガーデンウエディングのプロデュースなどもやってみたいですね」と文珍師匠は意欲満々だ。「本業の落語家として自分自身がここでめざす舞台は、やはり現代落語よりも古典落語に力を注いでみたいですね。自然に囲まれたこの舞台でウケるには、よはど力強く笑いの根源に迫るようなものでないとアカんからね。芸の足腰を鍛えるところやと考えている」 「落語的学問」を提唱する文珍師匠の”笑い”を中心とした新しい文化のうねりを希望したい。町当局ばかりでなく地元住民も期待に胸を膨らませている。 平成7年1月17日東明兵庫県南部を襲った阪神淡路大震災は、甚大なる被害をまんだら村人村者にも与えた。町は地震発生後直ちに関係者と共に水や食料、日用品などの救援物資を携行して被災見舞いを行った。その震災で柿を亡くされた兵庫県川西市の中国古等奏者伍芳(ウーファン/当時同志社大学在学)さんのチャリティーコンサートが山桜が映える震災から3カ月後に「まんだら村」の神戸市灘区の酒造会社の別荘「能登酒心館」で行われた。同年7月30日、桂文珍師匠の工房周辺で地元の鉄川明紳太鼓を合図に「第1回まんだら村まつり」が開幕された。出展した屋台村では、門前そば、サザエご飯、じんのび焼きそば、入村者の林氏のハヤシライスなどが発売される一方、地元の諸岡里おこし会では「もちつき」を行い入村者や来訪者へのサービスに努めた。また、クイズをしながら別荘めそりをするウォークラリーや「能登酒心館」ではミニコンサートも開かれ、入村者と地元住民のアイデア豊かな交流イベントが終日、賑やかに催された。 平成8年3月、町は交流促進施設整備事業として村内に管理棟、公衆トイレ、スポーツ公園、駐車場を完成させた。平成9年春、「村」に都会の小学校3年生から6年生までの8人が新しい住民として仲間入りをした。学習塾を経営する教育総研(本社・大阪市)が町と教育委員会の協力を得て計画した自然留学「能登の学校」の一環事業である。都会の児童が親元を1年間離れ、「まんだら村」で過ごすという企画である。児童らは、前年7月に完成した同社の自然留学センター「錬成館」に宿泊、約3m離れた松風台小学校に1年間通学するかたわら、身の回りのことは自分で行い、地元の子供たちと交流し、祭りなど地域の行事に参加することとなっている。当然、恵まれた自然環境の中で田植えや地曳網、天体観測などの体験学習も行う。また、インターネットのホームページの作成や交信をするといったメディア学習も用意されている。 町としても、都会の子供たちを受け入れるのは大歓迎であり、全図的にも注目されているユニークな試みだけに大成功してもらいたいと思っている。都会の子供たちがたとえ1年間という短い期間であっても門前町で過ごした思い出、地域住民と育んだ絆が当人だけのものに止まらず、町の貴重な「財産」として残るであろうと確信している。その意味でも「村」は新たなステップを踏み出すことになったといえよう。 |
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まんだら村の未来 |
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| 大生道場の完成から8年が経過し、現在、21棟が完成している。今年中には3棟が建築の予定である。 昨年は、5月にドイツ在住の陶芸家 リ・ヨンツェ氏のやきもの店が世界的な漆芸作家 角偉三郎氏アトリエ「逗ヤ房」で開催され、当初の予想を上回る成果を収めた。 6月には、“テラ”のこけら落とし公演として夕やけ笑劇場「桂文珍独演会」が文字 通り満員の観客の顔を夕日がオレンジ色に染める中で開会され、満天の塁に包まれるまで会場内は笑いに満たされていた。11月には、入村者の佐藤幸子氏と有志が資金を出し合い、村立図書館「厚葉木文庫」が設立され、新たなる文化交流の芽となる施設が提供された。そして、時を同じくして、能登半島の地域再生の起爆剤として期待される能登空港が着工し、平成15年の開港へ向け建設がスタートした。 「まんだら村」は、さまざまな分野の人々の集合体である。しかし、門前という町を舞台にそれぞれの独自性・主体性を保ちながら“こころ”の豊かさを求めていきたいと考えている。 地元住民との交流・文化・情報の発信受信基地としての役割を十分担えるよう、「村」の運営にあたっては、住民の参加を得ながら計画を進めていきたいと考えている。このような思いから、今後の運営・事業計画は村民、地元管理会社、役場担当者で『まんだら村自治会』を組繊し推進して行く予定である。とにかく、当初計画からは遅れてしまったが、「まんだら村」は確実に参入者のパワーと地元の人々との交流の輪が拡がりつつある。今日も能登の学校の9人の子供たちは村までの雪の通学路を元気に通り続けている。る。このような思いから、今後の運営・事業計画は村民、地元管理会社、役場担当者で『まんだら村自治会』を組繊し推進して行く予定である。とにかく、当初計画からは遅れてしまったが、「まんだら村」は確実に参入者のパワーと地元の人々との交流の輪が拡がりつつある。今日も能登の学校の9人の子供たちは村までの雪の通学路を元気に通り続けている。 |
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2.兵庫県但東町「赤花そばの郷生産組合の取り組み」 |
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| 「まず、3分の1をそばだけで食べて、そばそのものを味わってみて下さい。それからだしにつけて、最後にネギ、ワサビの薬味と一緒にどうぞ」。赤花そばの郷生産組合の本田重美組合長は「赤花そば」の食べ方をこう説明し、食べ方を伝授している。「赤花そば」は風味、色合い、コシの調和が良く、やや甘口のだしが似合う本物志向の“硬派”のそばである。 普通、そば粉8割に小麦粉などのつなぎ2割が入った「二八そば」がそばの限界と言われる。しかし、こねると強い粘りのでる性質のおかげで、赤花は100%そば粉だけで打てる。「赤花そば」は町のイベント以外には食することが出来ないことから“封のそば” と言われていた。コシの強さや独特の味わいの良さから評判がロコミで広がり、72戸の赤花集落の20〜30歳代の青年たちが中心となり、3年をかけてそばを核とした村おこしが開始された。後に地域そるみの赤花そばの郷生産組合の設立へと発展していくのである。 平成3年6月に「赤花そばの郷」(木造平屋建272uぱ、農村地域わかもの定住圏創造事業【農水省補助事業】)を町が事業主体となって建設し、生産組合に管理運営を委託した。町からの運営費補助はない。すべて生産組合が生産から販売まで行う独立採算制を採っている。 他では真似のできない在来種の力を最大限に引き出すため、今も地元産のそばしか使用していない。粒が小さく収量は上がらないという問患はあるが、当面は集落の活性化、団結の醸成を主目的とすることとしている。 土、日曜日だけの予約制で年間13,000食を販売している。メニューは地元産のそば粉のみの使用によるそば以外は置いてない。平日も営業すると地元産のそば粉が底をついてしまうため、土、日曜日のみの営業である。 但東町は、兵庫県の北部である但馬の東端に位置し、三方が京都府と接している。162平方kmのうち88%が山林で耕地はわずか4.7%であり、耕地面積788f、うち水田は690fである。人口6,111人、世帯数1,714戸、農家数992戸、農家率は58%。昭和45年から始まった土地基盤整備は、整備可能面積に対する整備率100%、水稲の単収は約440kg/10aで兵庫県平均を若干下回る。 そばはもともと山すその傾斜地に栽培され、主食代わりに食べることが多く、但馬の山村でも米を買えずに稗(ひえ)、粟、そばなどで自給自足をしてきた。本来、この地方の人々はそばは田地で作るものではなく、山の斜面を切り開き雑木や草を焼き払ってそばを撒きほそぼそと暮らしてきた。但東町赤花地区も同様であったと思われるが、近世では客へのおもてなしのごちそうとしてふるまわれた。 出石は但馬を代表するそば処であり観光地である。その源流は、出石藩主仙石公が前任地の信州よりそば職人を連れてきたと言われているが、但馬ではそば打ちは昔からどこの村でも行っていた。信州からの伝承という説はいささか疑わしい。 本来出石そばの供給源は但東町の奥赤花であったらしい。そばに合った気候風土であることが美味いそばのできる所似である。 本田組合長は、栽培管理から買い付け、加工販売までいつも忙しく走り回っている。赤花そばの郷生産組合長は本業ではない。本業は特殊プラスチック(FRP)の加工を主とする従業員8名の会社社長である。 「但馬のそばづくりは、主に焼畑で作られますが、高齢化と中国やアジア諸国から 安いそばが輸入されると採算割れし作付けが壊滅的に減りました。なんせタグみたいな値で製粉したのが入ってきますからなア」と本田氏。30円/kgで輸入される時代。赤花そばの玄そば買価は800円/kg。とても太刀打ちできない。日本全国、そばは輸入ものが主流になった。そんな中、町おこしにそばを思い付いた本田さんは、全国のそばづくりの作付け状況を調べ、「そば博士」とまで言われるようになった。消滅したからこそ希少価値がある。採算が合わないそばづくりに敢えて挑戦する価値はそこにある。 10年間で東北、信州、北陸、四国、中国地方のそば処を調査研究し学識を広めた。今では、近隣はもとより北陸、東北、四国、中国地方から行政視察やそばづくりで村おこしをめざす識者が多く訪れる。役場や普及センターは仲立ちはするが、視察の対応は全て本田組合長が請け持つ。そば職人と村おこしのリーダーとしての言葉には説得力があり、聞き入る人を引きつけて離さない。 「赤花そばと輸入そばとは全く味が違う。もともとそばにつなぎを入れるなど赤花ではやっていないのです。つなぎがないとそばができないのは嘘であり、いいそば粉さえあれば、コシも粘りもあるそばができるはずです」 本物は売れる。その信念が本田組合長を駆り立てた。平成3年のオープン以釆、土、日曜日のみの営業で年間5,000人から今は13,000人まで順調に客足を伸ばした。素朴な味を賞賛してロコミで宣伝してくれる。噂が広がり新聞、テレビ、週刊誌など続々と取材に訪れ、いつの間にか本田さんは但東町で一番有名で忙しい人となった。 そばの郷の一画にそば打ちが体験できるコーナーと製粉所がある。製粉は石臼で挽いている。そば打ちを教えるのは本田さんをはじめ赤花の人達で、そばの郷が開店する以前から我が家の伝統の味を守ってきた本物のそば打ち自慢の面々である。赤花では誰でもそば打ちができるはど腕白慢がそろっている。 但東町は平成6年にシルク温泉を町営でオープンし飛躍的に観光客が増え、さらに赤花そばも加わり、平成8年からは日本初の日本・モンゴル民族博物館もオープンし、観光客は現在年間43万人にも増加した。15年前には年間数千人の観光客であったことを考えると驚異的としか言いようがない。 高価な地元産のそばを使い採算を取るには地場産業として、地域に足を運んでもらい食べてもらう方法しかない。今、そばの郷は近隣よりむしろ京阪神地域からのお客様で満員の状況である。珍しいお客に同業のそば屋さんがよく来るという。つなぎなしの100%そばの真偽を確かめるために来店される。製粉所で赤花のそばの実を手に取り、そば打ちを見て,茹であげる工程を見て納得される。「私たちは何も難しいことはしておりません。粘りやコシのあるそばは良いそば粉があればどなたでも打てますよ。この村では背からこうしてそばを打ってきたのですから」とさりげない。 本田さんはこうして原料の確保に日々懸命である。但東町の休耕田の転作にそばを作り、将来1,200円/kgでも採算が取れるようにしたい。そうしないと赤花そばが絶えてしまう。そんな危機感が本田さんにはある。農家が安心してそばを作れるよう高いそばでも買い入れることが出来る付加価値の高いマーケットを作り、そこでそのそばを観光客に提供して村おこしをする。「素材は地元に苦からあるもの。フィールドは田んぼ。何も難しいことをするわけでない。大きな資本も必要ない。あるのはこだわりと郷土愛と情熱だけです」と本田さんの言葉にはいつも力強い。 隣の出石町の観光客が100万人。但東町の43万人と合わせるとそばの材料さえあれば夢の年間10万食は夢ではない。 赤花そばの郷では、自分のそばの畑が持てる「そばオーナー制度」を運用している。1口9,000円。赤花そばの郷周辺の畑約3,000坪の内、10坪分のそば栽培の権利がある。最低保障制度も充実させている(1.2kg/12食分)。 店内には女性客が多い。そばは代表的なダイエット食である。女性のロコミが功を奏している。そば代は1,000円、地元産のそば100%の代金である。予約制でいつも満席である。平日に来て「土、日曜日のみの予約制」を見て、どうしても食べたいと大阪からわざわざ土、日曜日にタクシーを飛ばして食べに来る人もあるという。 赤花そばの郷周辺のそば畑でそばの花が咲いている。白く小さい可憐な花は9月、受粉を控えて咲き誇っている。低い山々に囲まれた赤花の里は穏やかな庁まいを見せ、そばの郷に相応しい。毎年11月3日に「赤花そばまつり」が生産組合主催で行われる。新そばの収穫祭である。本当のそばが賞味できる、知る人ぞ知るのこだわりの祭りである。 米の生産調整が40%の時代。そばの作付け面積を増やすために、赤花そばの郷を中心に全町的規模で「但東そば生産組合」を設立した。昨年は町内で60fまで作付け面積を伸ばしたが、長雨による天候不良により思うような収量は残念ながら上げられなかった。町はそばの出荷奨励金として1kg当たり100円の補助制度を町単独事業として、平成10年度よりスタートさせ後押ししている。今年は昨年の教訓を生かして排水処理対策にも万全を期し、天候にも期待しながら昨年の分も挽回できる収穫が得られるよう意気込んでいる。 |
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3.長野県真田町「そばの産地化とそれを支える農業振興策」 |
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| 位置 | ||||||||||
| 真田町は本州のほぼ中央に位置し、東は群馬県嬬恋村に接し、南は長野県東部町、上田市、坂城町、西北部は更埴市、長野市、須坂市に接し、東西約15km、南北約17kmの逆台形型をした面積181.9平方kmの町である。周囲は1,200m〜2,300m級の山々に囲まれ、この山なみを源として神川・傍陽川・洗馬川・大洞川・渋沢川・角間川として豊かな水量をもたらし、町の中心部で袖川に、そして上田市で千曲川に合流している。役場を中心とした半径4km四方の範囲と、菅平高原の標高600m〜1,350mの地域に耕地と集落が散在している。アクセスは、町内を縦貫する国道144号線を中心に県道長野真田線、国道406号線が利用でき、上信越自動車道も本町の近隣を通過し上田菅平インターが近くに設置された。また、北陸新幹線の上田駅も近距離にあることから交通の利便性は一段と高まり生活圏や交流圏が広がっている。 | ||||||||||
気候 |
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| 真田町の気象は、国道144号川久保橋地点の598mから、菅平高原四阿山の2,35mまで1,756mという大きな高度差があるため平均気温も蕾平で5.60C、低地の真田消防署付近で10.0℃と差が大きく出ている。また雨量は菅平を除いて内陸性気候であり、年間降水量は平成8年で619.5mと全国的にも極めて雨量の少ない地方に属する。一方、菅平の冬は日本海型の気候となるため積雪量は多く、平成8年の降水量は1,066mとなつている。本町は80%以上が山林原野で、人工林の落葉樹が多く、菅平を除く農用地は水田を主に普通畑、果樹園等からなっている。菅平では標高1,100m〜1,350mの高原地帯が広がり、その冷涼な気候等から高原野菜の一大産地となっている。 | ||||||||||
概況 |
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| 真田町は、昭和33年旧長、傍陽、本原村が合併し現在に至っている。人口動態の推移は、昭和33年当時は12,728人であり、その後減少に向かい、ここ10年程は社会動態(転出・転入)は波があるものの微増傾向にある。また、自然動態(出生・死亡)は100人前後で推移しているが、平成3年以降は出生が死亡を若干下回っている。産業については、上田市の経済圏に包括されており、農業以外はこれといったものはないが、林産物、農産物、加工品、地域文化などを観光と有機的に結びつけようとする取組みが行われている。観光面では菅平高原でのラグビーやスキーなどのスポーツを中心に、また自然や歴史、あるいは温泉を求め、真田氏関係史跡、真田・角間・千古・渋沢温泉等、年間170万人の観光客が訪れている。 | ||||||||||
農業の槻要 |
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| 真四町の農業は、稲作を中心としながらも、転作作物としてそば・豆類を生産し、特産品としての開発を考えている。なお、水路、農道の老朽化が進んでおり、圃場整備などと合わせて生産基盤を強化し、担い手への農地利用集積の推進を図り、農業経営の基盤強化が望まれている。このため、生産から消費までを有機的に体系化した地域循環型農業の取り組みをめざし、魅力ある農村づくりの推進を図っている。 | ||||||||||
農業振興への展開 |
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| 真田町は、平成9年度策定の第4次真田町長期振興計画において、基本目標を「自然・文化・人・そして夢…子供たちへ」として、今迎えようとしている新たな時代に、本町が輝き、子々孫々まで本町を誇りに思える町づくりをめざしている。計画では@輝く未来への町づくりのための連携(地域の活性化・交流の拡大)A快適で住みやすいうるおいのある生活の実現(生活環境基盤の整備)B豊かで魅力ある産業の育成とその展開(高付加価値・高生産性農業、森林資源の活用と保全)C福祉と健康の町づくりの推進(高齢者や婦女子の活躍)D誰もが将来に夢をもてる町づくり(真悶町らしさを誇れる環境)E町民一人一人を大切にする財政の運営(行政と町民が一体となっての町づくり)の6項目を柱として掲げている。魅力ある町づくりをめざし、平成19年の人口目標を12,500人としている。本町の人口は、現在11,575人で町全体では昭和50年から微増加傾向にあるが、農業就業人口は年々減少傾向にあり、高齢化が進んでいる。農業センサスによれば基幹的農業従事者は、昭和50年に1,790人であったものが、平成7年では796人と45%以下となり、しかもピークが60歳以上となっている。また、遊休荒廃農地については、平成6年の町のアンケート調査によっても面積の2割以上となっている。 一方観光面では上信越・長野自動車道の開通、長野新幹線の開業により、広く近畿圏、関東圏からの来訪も容易となり、菅平高原では夏のラグビー、サッカー等、冬はスキー、スノーボード等で120万人が訪れにぎわっている。また、歴史散策や自然との触れ合い、あるいは温泉を楽しみに町を訪れる人達も少なくない。しかしながら、せっかく地域に足を運んでくれた150万人の人たちに対して、農業の活性化に結びつく工夫が遅れているというのが実態である。 このような状況の中で、本町では平成元年にく財)真田町振興公社を設立し、地域資源を活用した地域の活性化や地場産業の振興及びイベントの開催などを通して町の振興を図ってきた。また平成7年に農地保有合理化法人格を取得し担い手農家への農地の集積と遊休荒廃地の拡大を防止するため、営農推進部を公社に設けた。合わせて町では、そば、大豆の奨励補助金制度を設けて振興公社と連携し遊休荒廃地の防止に努めている。 さらに、振興公社では農村女性のグループと協力して、「真田の里“そば打ち会」を設立し、転作田を利用したそばの栽培とそば打ち体験やそばの販売を行っている。また農村と都市との交流を図るため、農村女性21名からなる「おひさまレディーズ」を結成し、東京都練馬区光ケ丘団地で月1回の青空市場を開催し、定期的な交流を図っている。光ヶ丘団地からはそばまき体験やそば打ち体験に100名はどが年に2回はど訪れ農業体験を行っている。その他にも「ふれあい市」や「大日向ふれあい市場」などで農産物を直売し、地域農業の振興と活性化に努めている。また、町内に11ある生活改善グループが協議会を結成し、農家の生活改善の研究・実践活動を通じて明るく住みやすい農村地域づくり形成に取り組んでいる。しかし、加工施設の老朽化が著しく、新しい特産品開発の施設もないことから、女性グループと振興公社による活動が残念ながら行きづまりの状態になっていることが心配の種である。また、練馬区など町外から農業体験をしたいという要望が年々多く寄せられているが、地元受入体制や施設が未整備であり要望に応えられていない。なお、農道や水路などの基盤整備がなされていないところでは、農地の借り手が見つからず農地の荒廃化が一層進んでいる。このため、新たな事業を導入し、そば・大豆を奨励作物として産地化、特産化を図っていく方針である。 |
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そばによる農業振興策 |
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| そばの奨励助成としては、平成10年度より、転作田にそば又は大豆を作付けした場合、10a当たり10,000円を補助する振興策をスタートさせた。翌11年度も同様の計画である。また、そば・大豆の収穫作業は振興公社営農推進部が受託し、大型コンバインにより10a当たり9,000円で刈り取りを行っている。さらに、そのそばを振興公社に売り渡した場合には、市価プラス30kg当たり5,000円という価格補償を行っている。そのため、平成9年度のそば作付け面積は従来の田畑を含めて15haだったものが、平成10年度は転作分だけで16haとなり、収穫の作業受託もmaから14haと倍増した。このそば粉は町内産のそばとして打真田の里そば打ち会”のメンバーが打ち、「ふれあいさなだ館」(町の温泉とプールを中心とした健康保養施設)で週2回、160食を提供し年間8,000食に達している。 また、「霧隠れそば」と銘打って乾そばとして振興公社で販売している。イベント等については、11月中旬の土日を利用してα真田の里新そばまつり”を開催して、毎年新そばを4,000食提供し今年で4回目となっている。このほか、年越しそば600食、8月の真田まつりで400食を町民や観光客に提供している。最近、入軽井沢そば組合という生産組合が結成され、そば振興と農地活用を図っている。平成8年からは、(財)電源地域振興センターの専門家派遣事業を活用し、そばの権威である信州大学農学部教授の氏原嘩男先生をお迎えし、そばによる地域おこしについての専門的な指導を受けている。 そばのはか大豆も特産品として開発していく計画で、振興公社では「幸村御膳味噌」というネーミングで既に商品化され消費も順調に伸びている。今後は、集落営農組合を結成し、話し合いの機会を多く設け、農業の多角化を考えると共に、機械利用組合や人材バンクを設置し人的な面からも元気な農山村を形成できるよう支捜していく方針である。 |