ZEN麺 Hot News ’98秋冬合併号
                (1999年4月発行)


第4章『役に立つイベント関連情報』
東京一極集中の隠された実態と地方分権の意義
 本号では現在、小渕内閣の経済企画庁長官に就任された堺屋太一氏がまだ入閣す
る前、平成10年1月20日に大阪、ホテル阪急インターナショナルにおいて国土庁の後援で開催された「首都機能移転シンポジウム」の中で行われた基調講演の内容(一部加筆修正)を紹介することとしたい。
 その内容は「平成17年開催予定の愛知万博」と「1月16日に発表された首都機能移転」についてであるが、共に景気低迷の中で若干色報せた傾向はなきにしもあらずである。しかし、景気回復の起爆剤になる可能性もあるし、イベント関係者の腕の見せ所としての舞台である。その関係者がどのような問題意識を持ってこれらの諸問題に対応しようとしているのか探ってみる価値は十分にあると思う。


1.愛知万博について
(1)経済危機の中での開催は大阪万博と共通
 愛知万博は一昨年、カナダ、オーストラリアという競争相手を振り切って2005年(平成17年)に愛知県瀬戸市で開催されることが決定された。名古屋は大小の博覧会を通じて発展してきたと言われている。過去、オリンピック誘致、ワールドカップ招時の失敗を挽回しようとの作戦である。愛知万博を語る時、まず昭和45年の大阪万博を振り返ることとしたい。
 1970年(昭和45年)に日本(大阪)で始めての万博が開催された。開催には8年間の誘致・準備期間が費やされた。私は当時28才で通産省の係長。我が国では初めて経験する分野であり各界への説明に苦戦した。日本は昭和9年に国際博覧会条約に署名していたが、1960年(昭和35年)まで批准をしていなかった。そのため、急きょ、臨時図会が開催され批准が行われた。当時、博覧会を万事知っている人材がいなかった。ある関西の一企業のみが応援を約束してくれた程度であった。企業への説明には2年以上を費やした。誘致決定3年目にモントリオール万博が開催された。まずは百聞は一見にしかずと関係者が視察に行き万博のイメージを掴むこととした。今思うと隔世の感がある。今、万博は誰でもが知っている。
 当時も現在に類似した社会状況にあった。山一証券に公的資金が導入された。また、アジアの経済危機も当時の日本にダブらせることができる。日本は工MFから緊急融資を受けたのだ。さらに当時は学生運動、全学連運動が盛んで万博も攻撃対象とされ反万博運動が展開された。火炎ビンや鉄パイプが私の自宅にも2、3度投げ込まれたほどだ。経済状況は厳しかった。

(2)現在よりも厳しかった環境問題
 当時、水俣病、川崎病等の公害問題も深刻な時期であり環境問題は今以上の厳しさが世論にあった。木は1本も切るな、完全に復元しろというものであった。そのため、開催場所もなかなか決定することができず、事前調査さえも認められなかつた。今回は開催まで7年あるが当時は5年しかなかった。このため、最初に99日日に98%の買収を完了するという逆算方式で作業に当たった。さらに、国有地がなかつたことが成功のポイントであったような気がする。国有地は周辺住民の合意に時間をかける必要がない反面、住民の合意を得ることが難しい。逆に、民有地は周辺住民の合意を得ることに時間はかかるが、合意後の理解はスムーズである。

(3)情報メディア効果の誤解、情報メディアと博覧会の相乗効果
 当時、情報学のはしりで「テレビ・コンピューター時代は一箇所に人を集めることは困難」という理論があった。これはカナダ人のマクルーハンという学者が唱えたことから、このグループをマクルーハン学派と言った(米国カリフォルニア州)。これを聞いて我が国の関係者は大阪万博は大変なことになると危惧し、マクルーハン先生とそのグループ(6人)に調査を依頼した(費用は膨大で2億数千万円を要した)。さらに、日本もこのグループの応援に40数人のスタッフを割いた。調査の結論は1,850万人しか集客出来ないというもの(政府目標3,000万人)であった。そのため、政府は道路造成とトイレ設置等の削減を考えざるを得なくなるなど消極論者が増加した。
 これを打破するため、私はニューヨークタイムズ、ワシントンポスト等を通じてマクルーハン理論が間違っているというキヤンヘーンを展開した。コテンパに撃破した。実際、大阪万博は開園当初の1カ月こそ入場者は少なかったが、春先から増加に転じ夏頃はピークに至った。結局、有料入場者は6,417万人で目標の2.15倍であった。
 1970年(昭和45年)9月13日にマクルーハンが所属する研究所は調査結果が誤りであったことを認め、マクルーハングループを即刻解雇された。マクルーハン理論はその後消滅していった。しかし、現在、また日本だけにマクルーハン理論が復活してきた感がある。この現象に世界がびっくりしている。「情報メディアは“集人型”ょり“送達型ガに機能する」というものである。これは明らかに誤りである。集人型と送達型は相互に現れるものであり、送達 型情報は機械(マシーン)が語れる範囲の情報に限られ、集人型情報は人が介在する雰囲気 型の情報である。送達型と集人型はシーソーゲームのようなもので相互に現れるものなのである。例えば、プロ野球を例に考えてみよう。テレビ中継のはしりの時期、パ・リーグの大映の永田オーナーはテレビ中継をするとお客は来ないとして中継を排除した。一方、セ・リーグの読売の正カオーナーはメディア側ということもあり中継をすればするほどお客は来るとして中継に踏み切った。その結果、集客は1:3となり、その後の両リーグの人気に大きな差を生じさせる要因となった。送達型が流行ると集人型が流行るのである。

(4)愛知万博は成功するのか
 従って、愛知万博は大阪万博より国民の万博に対する理解度、交通アクセスの整備等が格段に向上しているため「どのようにしても赤字にはならない」、逆に「赤字にするには大変な努力が逆に必要」と私は思う。私の予想では295億円程度の黒字が見込めるのではないだろうか。
 大阪万博の万博財団はび千石財団乃といわれるはどの財産を有している。例えば、会場跡地にしても坪100万円で100万坪を有しているので1兆円の資産を有していることになる。愛知万博は最低でも5,000万人以上の入場者が見込める。大阪万博は6,417万人(目標3,000万人)であった。新幹線、高速道路、ホテルは今より整備されておらず、ましてや人口も少なかったにもかかわらずである。現在、交通アクセスは当時より格段に整備され、5,000万人以下ということはまず考えられない。プロの味方では7,000万人とも算出している。
 1人当たりの客単価も入場料を含めてもデイズニーランドのそれ(6,000円/人)を下回ることはないと予想されている。6,000円/人×5,000万人=3,000億円。相当贅沢に作っても3,000億円はかからない。せいぜい1,500億円程度で儲かることは確実である。筑波博は入場者2,000万人、大阪万博の3分の1であった。費用は大阪万博と同程度、通常のまちづくりと同様の経費で作られた。従って、運営は大変であった。大阪万博の当時はまだ「万博の施設は別だよ」という認識が国民にはあったので安上がりに出来た。大先生方がまだ万博には注目しておらず、30歳代の新進気鋭な人材でエキスポロジーにのっとり仕事が進められた。

(5)どうすれば人が集まるのか
 しかし、この点は現在は厳しくやり難い。どうすれば愛知万博に人を呼び込めるのだろうか。それはエキスポロジーにのっとり「これがあれば私は見に行きたい(展示・催し)」というものを作ることである。そのためにはどうすればよいのか。なかなか難しいことであるが、第一は自分が行きたいものを作ることである。例えば、岩手・宮城で開催されるとすれば名古屋の人達が行きたくなるものを考えることである。外国の場合ではどうか等。要は自分が行きたくないものには世間も行きたがらないということである。
 失敗例として例えば、花博の時、花の大家の先生方がヒマラヤ7合目に生育する植物学上貴重な植物を展示すれば人は大勢来ると主張した。そのため、同様な環境条件を環境制御できる施設を莫大な費用をかけて作った。しかし、来場者100人中100人が気が付かなかったのではないだろうか。話逼としては科学誌として世界的に権威のある「ネイチヤー」に掲載された程度である。このような大先生に振り回される失敗は枚挙にいとまがない。
 第二は最も大きな誤解「環境問超」である。大阪万博の際も環境間魅は今以上に注目されていた。当時はイタイイタイ病等公害病が大きな社会問題であった。そのため、環境問題に過敏な大先生方は「千里の竹薮を守れ」と声をあげた。しかし、環境を守れという大先生方は東京に住んでおられる。そして彼らが言うことは「エリートは環境現場に行く必要はない。大衆が行動を起こせばよい」という思い上がり的なものであったように記憶している。環境問題はエキスポロジーでは裏方として十分配慮して対処する問題であることは当然なのである。

(6)時代は給費本主義の時代へ
 第三は総資本主義化の時代という認識を持つことである。世界では「コマーシャルこそ美しい」という時代になって来ている。例えば、オリンピックを例に説明すると、1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは「崇高なのはアマチュアイズムでありアマチュアイズムこそ美徳である。プロフェッショナルこ広告はアマの理念を冒涜するもの」という認識であった。そのため、コマーシャリズムを排除して赤字となった。要は大衆を相手にしなかったということである。そのため負担は一身に国が負ったのである。その後のモントリオール、ミュンヘン、モスクワ大会は政治のイベントとなり大赤字となった。
 大変革はロサンゼルス大会で起こった。ピークー・ユベロスという人物(観光業経営者)が「補助金はいらないから役人は口を出すな」というコマーシャリズムを前面に出した運営を行った。そのため2億ドルの黒字となった。長野冬季オリンピックでも採用した聖火リレーも彼のアイデアであり、参加費1人当たり30ドルを徴収した。その後、,88年(昭和63年)のソウル大会、‘92年(平成4年)のバルセロナ大会は「コマーシャリズムが〃尊重刀されるようになった」。社会主義、官僚主義が衰退し、消費者・大衆に喜ばれるものになっていった。コマーシャリズムの例として優勝者はスポンサーの商品を身につけて記者会見をしなければならないことになった。博覧会もこのような傾向が顕著になってきている。‘96年(平成8年)のアトランタ大会ではこの理念がさらに進化して「コマーシャリズムは“尊敬”されるようになった」のである。その象徴として聖火台への点火という檜舞台の役者はモハメドアリのようにプロになって成功した立派な人が務めることとなったのである。
 2000年(平成12年)のオリンピックが当初の下馬評では北京であったものが、選挙でシドニーに決定したのは「北京はコマーシャリズムを理解していないのではないか」という疑念からであるといわれている。そのため、中国はこの疑念を解くため上海での体育大会でコマーシャリズムを理解しているという宣伝を大々的に行った。冷戦が終わった最大の変化はこの“総資本主義化〃の台頭である。大阪万博の当時はこの考え方の理解が進んでいなかった。現在はそれが理解されている。
 このように、@総資本主義化の時代を迎えたこと、A交通アクセス等立地条件に恵まれていること、B近隣諸国の発展が著しいこと等の有利な条件下に愛知万博はあり、エキスポロジーをパパ抜きする勢力から脱却できる環境下にある。人の金を使うことには国民の関心は高い。自分と夢とダブらせることが可能な演出が求められている。

(7)環境は博覧会のテーマになり得るか
 “環境保護”は裏方であり主役にはなれない。環境保護を見て面白いと思う人は少ないのではないか。例えば、コンピューターを見ても人は喜ばない。コンピューターで作成された映像を見て人は喜ぶのである。環境保護を見せられても人は喜ばないし来てもくれない。楽しさと学ぶという関係づくりが必要である。





2.首都機能移転について
(1)工業先導性の理論が画一、均一、共通化体制を構築
 ドイツでは現在ベルリンヘ首都機能を移す計画を予定より2年加速させて推進している。隣接地・ハノーバーは2000年に万博が計画されているからだ。首都機能移転と対になって都市計画を考えている。首都機能移転について私は25年前、1968年(昭和43年)の通産省産業立地局在籍時代に「日本の地域構造」という論文を出して訴えてきた。当時は“工業先導性の理論”という工業のみが地域を発展させることが出来るという考えで社会が動いていた。工場を誘致すれば従業員が地域に定住し買い物や病院等の需要を生むという考え方である。ほとんどの人がこれを信じていたが、歴史的にも理論的にもこれは誤りであるということを当時から私は主張していた。
 都市のほとんどは商業集積、第3次産業から発展してきた。工場城下町として室蘭、釜石等は国内にあるが規模は小さい。苦から城下町,門前町から発展したものは規模も大き(、同時に文化も発展している。〃工業先導性の理論”はまさに「所得倍増⇒大規模工業の起業化」というものである。これは昭和16年休制であり明治以来の日本の近代化路線である“規格大量生産体制”といえる。これを実現するための基盤作りが「資本蓄積⇒大企業の育成⇒共通の知識、協調性のある個性と独創性のない人材の育成」というシナリオで進められた。また、同時に、規格大量生産の商品を購入する統一大市場を作るため市場の共通化が図られた。規格を一定にするメートル法の導入もこの一環である。

(2)国家機能の東京一極集中への恐体
 このような全国共通化が七転八倒の努力の中で進められたわけである。これを加速させたのが帝人事件(企業の発言権の封じ込め)、2・26事件による政府・軍部の台頭である。昭和16年には「帝国国策要綱」が定められ、日本工業規格、建築基準法、国民学校令(没個性化教育)等が施行された。有機型地域構造、いわゆる頭脳活動(@産業経済政策、A情報発信、B文化創造)は東京のみで、地方は農業と工業の生産現場という構図である。

(3)全業種の全国段階組織が東京にある理由
 第一の産業経済政策・活動中枢の東京集中化施策として、昭和35年に通産省は全業種に全国段階に業界団体を作らせ、本部は東京に置くことを義務づける指導を行った。この試みはそう簡単には進まなかった。特に、繊維(大阪)、陶磁器(名古屋)業界は東京に行きたがらなかった。そのため日米繊維交渉を逆手にとって繊維業界に繊維団体工業会という屋上組繊を作らせた。そして、東京に業界の本部がないから交渉が進まないという屁理屈をつけて「敵は米国ではなく大阪にあり」(当時の繊維局長の言葉)という大号令を発した。この東京本部づくりは今でも進められている。山形県天童市の「将棋の駒工業会」の本部も東京に移転させようとしているはどである。その行政指導たるや大変なものである。例えば、銀行協会も東京に本店のない銀行は協会の会長にはさせない、協会の会長に就けなければ勲一等もやらないという圧力である。

(4)メディアは東京中心、本社と支社の関係
 第二の情報発信の東京集中化施策としては、昭和16年の印刷メディア(東販・日販等の4社体制)の東京集中への義務化があげられる。再販制度として現在でも問鹿とされている制度である。出版物・雑誌は東京を経由しなければ販売できないことにしたのだ。また、電波も世界に例を見ない川キー局システム〃を義務づけられている。地方放送局には全国放送の編成権が認められていないのである。例えば、大阪を舞台にした大阪の番組を全図に放送したい時には東京のキー局にお願いしなければならない。その際、東京向けに脚本やキャスティングまで口を出される。本社(東京)と支社(大阪)の関係である。大阪のものはほとんど東京では放送されない。これは“情報格差の是正”が大義名分となっているが東京に合った番組だけが全図放送として選ばれるシステムなのである。
 地方のことが東京で放送されるのは「事件、事故、スポーツ、伝統行事」のみである。数年前の西日本の水不足も霞ヶ関(中央官庁)の課長の55%しか承知していなかったという調査結果が出ているほどである。

(5)文化活動も東京集中
 第三の文化活動の東京集中化施策としては、昭和16年の文部省の思想通達が影響している。文化・芸術活動の本格的な施設は東京だけに整備し、文化・芸術活動に携わる者は東京で活動しなければならないという政策誘導である。例えば、格闘技の本格的専門施設は現在でも東京のみである。地方は多目的施設である。多目的とは全部が本格的、専門的でないということを意味する。
 歌舞伎の渡り廊下は舞台に直角でなくてはならないが多目的のため斜めに設置せざるを得ない。コンサートホールもサントリーホールのようにオーケストラの周りにギャラリーが囲めるものが本来のものであり、鍛帳などがあってはならないのだ。このように万事が地方では本物が見られない状況となっている。このような施設の在り方からも芸術活動は東京に住まなければ出来ないという誘尊・圧力がかけられた。昭和16年から思想警察(警視庁)が文化活動の統制を厳しく行ったのである。

(6)外国では特定情報に偏らないように首都機能を移転
 このような東京集中化、規格基準統一は戦後も強力に推進された。100年かけて無理やり政治・経済・情報・文化を首都に一極集中させたのは日本だけである。自由主義体制の国家では経済・文化は首都から切り離し、首都から離れた所に整備している。イタリアでは政治はローマであるが経済はミラノ(市場)である。フランスでは上位100社のうち59社のみがパリに本社を置いている。東京はこのような意味では「規格大量生産体制の堂々たる首都」である。東京霞ヶ関の官僚は東京メディアしか知らない。情報格差が激しいのだ。外因では特定情報に偏らないように首都機能を移しているのである。行政改革、規制緩和は鈴木内閣(中曽根行政管理庁長官時代)から取り組み始められたと認識している。
 しかし、今日、規制は逆に増えてきているのではないか(エイズ、オウム、0−157等の影響)。何か事件が起きる度に規制は増える。知事の東京滞在期間も増加傾向にある。例えば、都市計画等の中央省庁との事前協議という形で県庁と霞ヶ関の往復が増えている。このように従来の発想では行政改革等は進まない。歴史・時代は首都機能が移転しなければ変わらないのである。移転すれば一変する。改革には一番安上がりな方法である。
 平清盛の福原遷都、鎌倉時代の幕府の鎌倉移転(政治、文化、人脈の分断)、室町時代後期における繊四信長の安土城への移転、豊臣秀吉の大阪城への移転、江戸時代の幕府の江戸城への移転、幕末の京都移転(14代将軍家持は京都に移り住み、江戸は空洞化していた。この間に改革がなされた)が歴史的な事例としてあげられる。日本を変えるには首都を変えるしかないのである。

(7)情報通信社会の到釆は東京一極集中の打開策になり得るのか
 土光臨調から規制緩和を図っているがいっこうに進んでいない。意外なことは「インターネット」が東京一極集中をさらに加速させているという現象である。30歳代のインターネットサバイバーの居住は港区から渋谷区の間に集中している。作家も港区、渋谷区、新宿区、千代田区に集中しつつある。なぜか? 直接・間接的に行政の圧力があるからだろう。これが日本の特徴である。

(8)首都機能移転が日本の閉塞感を打破する道
 一方、首都機能移転の要件の一つである地震問題も日本列島どこでも起こる可能性があり地震をクリアできる地域はない。問題は相互に首都機能をバックアップできるよう東西2つに分割することが重要なのである。
 日本の閉塞感を打破するためには首都機能移転が一番安上がりである。これがなかなか理解されない。首都づくりをすれば50年で140兆円を要する。しかし、首都機能移転のみであるならば12兆6千万円で済む。これ以外に日本を変える道はない。首都機能移転の論議は「現実型から目的達成型に」「官僚主導型から消費者主導型へ」転換することが重要だ。着手は出来るが達成出来ないのでは困る。例えば、国鉄問鹿でも当初は分割民営化は現実的ではないと言われた。入口はあっても出口がないのでは困る。入り口は難しいが出口が見えるというようにしなければならない。
 昨年1月16日に移転先として3つの候補地が発表された。誠にひどいエリア設定である。曖昧、漠然としている。東京にいると北の話のみが入ってくる。重要なことは@全図規模で議論すること、A首都機能は百年は保つものとすること、B目前にこだわるべきではないということである。従って、ここは農振地域だからダメという議論は国家の体系を考える際に考慮すべき事項ではない。議論するスケール・目的を大きくすることが必要だ。国民投票をするなど国民全体が強い関心を持てる検討システムとすることが重要と考える。ご静聴感謝する。








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