ZEN麺 Hot News Vol.4
                (2000年3月発行)


特集 『豪州におけるそば栽培について』
全麺協会員 農事開発研究所所長
福井県今立郡池田町   谷端 淳一郎
1.はじめに
 豪州におけるそば栽培を思いつくきっかけは、昭和60年(1985年)の秋に福井県玄そば組合長であった中山垂成氏(越前そば道場・道場主)から、『そばは夏に多く食されるが、その時期になるとそばの風味が落ちて困る。』という言葉を聞いたことでした。その頃、総務庁が主催する『第19回青年の船』に福井県から班長として参加することに決定していた私は、『この機会を、福井県や地域発展のために役立てたい。』と願っていました。そして、福井県を代表する食文化の一つ、“越前そば”のレベルを更に上げるためには、より新鮮な玄そば(新そば)を入手する必要があり、そのためには『季節が逆の南半球での栽培が有効ではないのか。』との思いが南半球の豪州と結び付いたことから、「豪州そば」栽培の取り組みが始まりました。

2.地域づくりへの夢
 このような思いに至るには、「地域づくりへの夢」がありました。学校を卒業後入社した大阪にある企業を辞し、私は24歳の時に隣町の地方公務員として再就職しました。その時に入団した「青年団」の活動は、高度経済成長期に衰退した地方の再建活動(ふるさとづくり運動)に精力的に取り組んでいました。当時の地方は、長洲神奈川県知事(故人)が提唱した「地方の時代」を模索している時期にあり、「青年団活動」はその先頭に立った活動を実威していました。昭和48年に起こった第一次オイルショック下で都会生活を体験し、『地方の時代』を実感していた私はまたたく間に「青年団活動」にのめり込みました。しかし、『青年の力で地域再建を!』と叫んでも、当時の私達にはビジョンが全く浮かびませんでした。『地域づくり』への熱い思いを具体的なビジョンにする為、私達は「十勝ワイン」で有名な北海道池田町を手始めとして「まちづくり先進地」の視察を開始することにしました。この視察はどこからも補助を受けない全く自前による全国行脚で、毎年1つの地域を徹底した事前学習を行ってから訪問するというものでした。この全国行脚によって、北海道から九州までの「まちづくり先進地」を丹念に訪れました。視察の結果、私達の頭の中には『地域づくりとは自らの生活づくり(生活再建)であり、地域の産業おこし(産業再建)である。』との意識が次第に明確になってきました。
 30代に入る頃になると、青年団の仲間達がそれまでのサラリーマンを辞め、農業を中心とした新しい地域産業を創出し始めました。一緒に全国行脚をしていた仲間達がそれぞれの生きる道を発見し、自ら起こした新しい仕事に励んでいる姿は、地方公務員に甘んじている私の生き方に大きな刺激と夢を与えました。私は『自分も地域を舞台にして、何かを始めなければならない』と、強い義務感と使命感を感じて焦っていました。全国の「まちづくり先進地」の例、青年団の仲間達の実践、私が住む池田町の可能性……、私は考え悩み抜いた禾に『地域づくりは楽しくなければ続かない、そのためには「やるべき」ことよりも「やりたい」ことを始めよう。』との結論に達しました。そして、今まで外に向けていた目を『私は何がやりたいのか』と自分自身に向けたのです。そして私の大好物で、地域でも苦から親しまれている「そば」に着目したのです。

3.「そば」に着目し始めて
 以来、地元のそば屋さんに弟子入りして「そば打ち」 を本格的に教えてもらったり、そば談義に耳を傾け、 各地のそばを食べ、本で知識を深める等々、楽しく充実した日が始まりました。すっかり「そば」の魅力にとりつかれた私は、そば打ち道具を事に積み「公民館」に出向いて青年団の仲間や婦人会の人達に『そば打ち』を教え始めました。私の関心はそば打ち道具にも移り、地元の木工所で「木鉢」「麺棒」等の製造を提案したり、「そば切り匂T」を探すうちに『そば打ち名人』として有名な片倉康雄氏(一茶俺主人・故人)のそば切り包丁を作っている鍛冶屋さんが近くに居たりで、最高のそば打ち道具が手に入る環境はまたたく間にできあがりました。これには、「越前打刃物」「越前漆器」「越前焼」など『伝統的工芸品』の産地が近くの地域に位置していたことが幸いしました。
 次の関心は原材料である「玄そば」に広がり、1反ほどの休耕田を借りそばを栽培し始めました。そして、収穫したばかりの新そばを使って「新そばを打ち食べる会」などを開催し始めました。このような取り組みの中で、前述した福井市の中山垂成氏や会津若松市の唐橋宏氏と出会い、親交が深まってゆきました。

4.豪州そば栽培の意義
 当時、我国のそばの消費量は年間約10万トンで、わずかづつ増加傾向にありました。そばの消費が増え続けている一方で、その殆どは外国産のものでまかなわれ、我国の農業弱体化の中で国産は全体の10%強にまで自給割合が減少し、この傾向はさらに続くことが予想されました。その時点でそばの輸入量は約8万トン、その輸入先は中国が60%、アメリカ30%、カナダ10%でこの3ケ国で輸入量のほぼ全量を占めていました。そばは熱を嫌うため冷蔵状態での保存が必要であり、貯蔵時の保管料がかさむこと、晩軟に収穫したものを翌年の1年間にわたって使用するため、夏や秋になると味覚と風味が低下することが課題となっていました。さらに、栽培地の収穫量や品質が気象条件に大きく左右されることや、玄そばの長期保存性を増すためポスト・ハーベストとして農薬が使用されるため、健康食品としての有効性を欠くのではないかとの恐れも心配され始めていました。
 これらの課題を解決するためには、南半球で栽培の適地であり我国に最も近い豪州でのそば栽培が非常に有効と考えました。豪州では北半球の日本とは季節が逆転するため、そばの収穫は3〜5月であり、日本の需要期である夏場に「新そば」を供給できるのです。
 さらに、そば業界として中国を中心とした2〜3ケ国のみにそばの供給を依存することは、気象や海外での政治不安、国内貯蔵時の保管料の対応と味覚の保持に備えるため、抜本的な対応に迫られることは必至と考えられました。その為には、南半球でのそば栽培は必ず将来的に必要とされると予想しました。一方、お米と違ってそばの専業農家はその当時全国的にみても皆無でしたし、外国からの輸入増加によって国内の農家が損害を受ける恐れは考えられませんでした。

5.豪州におけるそば栽培の取組み
(1)『青年の船』での取組み
 『第19回青年の船』は昭和61年(1986年)の1月24日から3月14日まで、豪州を中心としたオセアニア方面を訪れました。私は団長から正式な寄港地活動と認められ、『日本伝統の食文化紹介』として“越前そば”を披露することになりました。そして、シドニー港はじめ寄港地ごとに船への招待者に対して、“越前そば”の手打ちを披露し、試食していただきました。そばに興味を示した、豪州等の招待者に『興味があるのなら、蒔いてみて欲しい。』と、我が家から持参していた一握りの“そばの種(池田在来種)”と一緒に英文で書かれた私の名刺を手渡し『是非、蕎麦の育成状況を写真で送ってください。』と依頼したのです。
 当時の豪州は肉食を主体としていたせいか、生活習慣病に対する予防意識が強く、私が『そばは健康に良いですよ。』と説明すると多くの人達が興味を示し、用意していた“そばの種”はすぐになくなりました。この様子を見ていた、日本貿易振興会(ジェトロ)・アジア大洋州課の江橋正彦氏(『青年の船』教官として乗船)は、『南半球でのそば栽培とは面白い発想だ、手伝ってあげよう。』と協力を約束していただきました。帰国後、日本貿易振興会へ『豪州の玄そば産業の現状』についての調査を依頼し、昭和61年の夏にこの件についてのレポートを入手しました。その後、この年の10月中旬に、江橋氏から『そばを取り扱う豪州の穀物商社が来日する。』と穀物商社の訪日を知らされ、10月下旬に東京のホテルで面会することになりました。

(2)豪州の穀物商社との取組み
 私は豪州からの穀物商社に、半年聞かけて調べた我が国におけるそば消費の現状と、風味が夏に欠落するそばの現状を伝え、逆の季節を利用した『豪州におけるそば栽培の可能性』と『越前そばのレベル向上と地域活性化』をつなげたいとの夢を語りました。豪州の穀物商社からは、1970年代の10年間に日本向けのそば栽培を手掛けていたことと、現在は殆ど無くなっているが、『豪州でのそば栽培を是非とも復活させたい。』との希望を聞くことができました。さらに彼らに対し日本貿易振興会から入手していたレポートの内容を伝え、@過去の失敗を克服するための方法を共に考えること。A豪州で栽培したそば(マンカン種)のサンプルを送ること。B福井県産のそば種を蒔いて適性を実験すること。の3点を約束し合い『互いの夢を実現するため、豪州でのそば栽培を成功させよう。』と固い握手をして別れました。
 その後、昭和63年(1988年)までの4年間にわたり、前記した主にAとBについて手紙と毎年10回程度そば種の往復がありました。時には、「越前そば道場」で豪州から送られてきた”マンカン種”を試食してみたり、県内のそば製粉所に持ち込んでみましたが、一見して『このそばは粗悪品だ。』とあっさり利用を断わられてしまいました。この間、豪州そばの質を何とか向上させようと福井県農業試験場作物課の指導を受け、そのレポートを送ったり、3反程の爛を借りて自分で栽培する実践を繰り返しました。
 しかし、何年経っても豪州の穀物商社から送られて来るそばは、いつも質の悪い“マンカン種”であり、過去の失敗を克服する方法を考えていることなど、全く感じられませんでした。さらに、私が何度となく送った数種の“福井県産のそば種”の栽培を実験した様子などなく、過ぎゆく年月と遅々として進まない豪州の穀物商社の対応にしびれをきらしてしまいました。このような対応の悪さにあきれながら、彼ら以外に豪州の農家との接点を持っていなかったものの『豪州でのそば栽培の夢』を捨て切れず、対策として次の2つの方法を考えました。その1つは、豪州を訪問してもう一度穀物商社に会い、今後の進め方について強力に交渉すること。2つ目は、日本貿易振興会に依頼して彼ら以外の穀物商社を紹介してもらうことでした。
 平成2年(1990年)に入ってすぐ、穀物商社に2月中旬に豪州を訪問し、そば栽培の現状と今後の進め方について話がしたい旨の手紙を送りました。そして、日本貿易振興会に『豪州のそば取扱い商社について』の調査を依頼しました。穀物商社からは訪問を待っているとの返事があり、2月10日に英語が堪能な友人と一緒に豪州を訪れ、そば栽培の畑などを見学し今後の進め方について話し合いました。滞在中の話し合いで明確になったことは、@彼らは日本の商社が相手で、私には全く関心がないこと。A”マンカン種”のそばに自信を持ち、“越前種”に変更するつもりが全然ないこと。B過去の失敗は反省せず、自分の栽培方法に自信を持っていること。の3点でした。同行した友人からは、『彼らはお前など全く相手にしていない、早く馬鹿な夢(豪州でのそば栽培)から覚めろ。』と忠告され、この時ばかりは全く失望してしまいました。

(3)そば生産農家との出会い
 このような失望の中にも、豪州を訪れての唯一の救いは“そば栽培農家”との出会いでした。2月12日、穀物商社の案内でそば爛を訪れた時に“そば栽培者兼栽培指導者”として一人の農業青年を紹介されました。穀物商社によると『彼は極めて有能な青年であり、そば栽培に大変な関心を持っている、豪州におけるそば栽培の成否の鍵を握っている男だ。』と彼を紹介されました。話をしてみると、確かにそば栽培について良く知っていたし、もっと深く知りたいとの強い意欲を感じることができました。私は穀物商社よりも、そば栽培農家の彼に『豪州でのそば栽培の夢』に対する反応の良さと、強い意欲を感じとることができ、彼と組むことを考えました。そして、『今後も日本向けに栽培するつもりなら“マンカン種”では駄目だ、日本でレベルの高い福井のそばで最も評価されている“池田種”を栽培するつもりはないか。』と持ちかけました。彼は『試験栽培をしてみたい。』と意欲を示しましたが、残念ながら穀物商社が我々の会話の中に入り込み、それ以上の話はできませんでした。

(4)そば栽培農家との取組み
 豪州から帰国1ケ月後の3月15日に、日本貿易振興会から1月下旬に依頼していた『豪州のそば取扱い商社について』のレポートの報告を受取りました。レポートは『豪州におけるそば取扱い商社の情報は入手困難』との報告であり、穀物商社を経由しないで直接豪州で会った農業青年と結び付く良い方法がないものかと悩んでいました。ちょうどその時、東京に住む知人に久し振りに再会しました。たまたま、この知人が貿易を手がけていることを知り、それまで進めてきた『豪州でのそば栽培』の経過と悩みについて話したところ、彼はこの事業の推進に協力することを約束してくれました。12月には試験栽培用として10kgの“池田在来種”のそば種を、直接豪州の農業青年に送りました。豪州からは、栽培地の気象データーや土壌の分析結果等が届き、適時、福井県農業試験場作物課の指導を受け、それを再び豪州に伝えるという非常に良好な状態で、試験栽培を進めることができました。ちょうどこの頃『そば博士』として有名な、信州大学農学部植物資源学科の氏原教授と面識を持つことができ、氏原教授のご指導を受けるという幸運にも恵まれました。

(5)本格的なそば栽培の開始
 氏原教授を始め多くの方々の協力を得ながら実施した試験栽培は成功し、これに自信を得た私達は、平成3年(1991年)12月中旬には100kgの“池田在来種”のそば種を豪州に送りました。“池田在来種”に決定した理由は、福井県農業試験場作物課の過去3年間の研究により、池田在来種が“越前そばに最も適した玄そば”の一つとして評価されていたことと、福井県内製粉所の評価が極めて高かったことによるものです。この種は、翌軟(日本では春)の収穫時に約8トンの玄そばを実らせました。収穫を終えた豪州の農家からは、今後の進め方について参考にするため、平成4年(1992年)4月14〜15日の両日池田町を訪れ、池田町農協のそば乾燥貯蔵施設や、県内の石臼びきのそば製粉所、福井県農業試験場を見学しました。
 そしてようやく、この年の夏に”池田在来種”を原種とする豪州で栽培された“新そば”が4トン、冷蔵コンテナに入って池田町に到着しました。早速、福井県内の2ケ所のそば製粉所で試験的に使って頂いたところ、『非常に風味があり、良質である。』との結果でした。しかし残念なことに、この年は全国的に“そば豊作の年”で、県外のそば製粉所に持ち込んでもほとんど興味を示してはもらえませんでした。

(6)豪州蕎麦の悩みとチャンス到来
 この事業を始める時に、豪州の農業青年に『輸入量は徐々にだが、毎年確実に拡大させる。』と約求したものの、『スケールメリット』を生かそうと経営拡大を望む豪州側と、日本での評価が高まらない豪州産“池田在来種”を、どうやって大量に販売するかと悩む日々が続いていました。
 そのような中、私達に絶好のチャンスが訪れました。平成5年の『冷夏』の到来です。この年はお米の凶作ばかりがマスコミなどで大きくクローズアップされましたが、実は「そば」も大変な凶作でした。12月に入る頃、私達の手許には、天候不順によって日本国内で収穫されたそばが激減していることと、カナダ、アメリカのそばも天候不順のダメージを受けたことの情報が入っていました。このような状況の中、私達は来年(1994年)が豪州産のそば飛躍の年と見込み『チャンス到来』とばかりに、約500トンの収穫量を予想した種まきを行いました。
 悩み苦しみながらも、夢を保ちながら続けてきた今までの取り組みが功を奏したのか、この年の豪州は気候も良く、「豪州そば」は大豊作に恵まれました。この時ばかりは、福井県内だけでなく県外からも引き合いが多く、東京を中心とした製粉所とも問屋を介してつながりを持つことができました。そして『そば不足の危機を救った「豪州そば」』として製粉所に良い印象を持って迎えられました。お陰で、この年に収穫された全量が日本に輸出され、我々の「豪州そば」は理想的なデビューをすることができました。

6.豪州そばの新たな展開へ
 この年以降、私達の豪州から我国へのそばの輸出量は、400〜600トンの間で安定的に推移しています。栽培品種も「越前種」「常陸秋そば」「会津種」と試行錯誤する中で、1つづつ増えています。また、製粉所の要望を取り入れた品種の改良や、栽培適地の選択、栽培農家の研修などを行いながら、着実に『豪州そば』としての位置付けを確立しつつあります。
 夢を語るばかりで、何もできない私を励まし、支えて頂いた多くの関係者の皆様に深く感謝しながら、最初からの夢であった『地域活性化への取り組み』や『豪州でのそば普及』を忘れることなく、地道にこの事業を進めたいと願っています。県境の山に囲まれた地域で育った私は、青年期に地域活性化と出会い、『地域産業の育成』と『夢の持てる暮らし』を実現させるため、「豪州でのそば栽培」にその解決の道を求めました。今後、事業としての確立を目指すとともに、地域との係わり、豪州との交流を視点に入れた新たな展開を行っていきたいと願っています。








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